まなび、かく、ブログ。

まなぶことは、生きること。

中国人部下の、本気の涙

それは、中国の広州に赴任中、

私が体験した実話。

 

私が生きていくうえで

今後仕事をしていくうえで

決して忘れられないワンシーンとして

鮮やかに残り続けていくだろう。

 

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中国の広州へ29歳の時に赴任した。

 

初の海外赴任。

 

会社のトレーニー制度での赴任なので、

出向者とは立場、責任が異なる。

 

拠点側ではなく、日本本社側が私の給料を払い、

1年間の研修期間で学んでこい、

そのようなものだった。

 

トレーニーとはいえ

業務内容は容赦ないものだった。

現地スタッフにとって

出向者という定義がよく分かっていないのだろう

出向者と比較されるし、

出向者と同様の結果が期待される

 

難しいプロジェクトを率いる立場となり、

現地スタッフ3人を部下として統率していくこととなった。

 

日本でも部下を持ったことがなく、部署では最若手だった。

中国でのこのプロジェクト推進は、

私にとって試練のような日々となった。

 

プロジェクト内容を簡単に言うと、

生産拠点の移管を生産管理すること

だった。

 

広州の拠点から、無錫の拠点へ、

とある製品の生産ラインを移管させる

 

その全体日程を管理し、

かつ在庫量などをコントロールし、

コストミニマムで成立させることが

課せられた。

 

生産地移管、というのはたやすいことではない。

顧客承認の取得、

政府認証の取得、

それに完成品在庫の先行生産、

それに伴う購入部品や、

人員などリソースの確保・・・

 

山のようにやることがあった。

山のように考える必要があった。

他部署と議論を繰り返し、調整する必要があった。

 

部下3人は若いメンバーだった。

29歳男(業務経験5年)

26歳男(2年)

24歳女(0年)

 

特に24歳女のイン(仮)は

当プロジェクトにおいて最重要な役割を果たすことになった。

それは、もっとも顧客承認を取りにくい、

かつもっとも政府認証を必要とする製品を

彼女が担当することになったから、である。

 

彼女はいわゆる、ハズレくじを引いたようなもの。

 

繰り返すが、業務経験は0。

何なら、私がトレーニー就任後に転職してきた。

 

 

もともと、日系企業に勤めていたということで、

日本語がとても流ちょう。

日本流の仕事の進め方、のようなものもある程度心得ていた。

とても、賢い人だったのだ。

その賢さが、私にとっても本当に助かった。

 

私もまだまだ若手で未熟。

だが、色々な人の助け、助言もあり、

このプロジェクトを成功させる道筋は

描けていた。

昼夜休み問わず、いかにしたら円滑に進められるかを

考え続けていた。

そしてそれを紙に書き続けていた。

 

3人の部下にいかに活躍してもらい、

その描いた地図を現実に変えていけるか、

それを考え続けていた。

 

インは重要な仕事をこなす必要があった。

だからコミュニケーションを非常によくとった。

 

朝一で、今日やるべきこと、ゴールをクリアに認識合わせ。

午前中は一緒に会議に出て、

昼一で、進捗の確認

夕方、帰宅前には定めたゴールに対し、今の課題と解決方法・納期

を話した。

 

日本語が流ちょうとはいえ、異なる言語・文化を持つ部下だ。

少しの認識のずれから、致命的なミス・ロスにつながることもある。

周りの先輩らの助言も大いに参考にしながら、

 

それぞれの部下とのコミュニケーションを最優先にした。

 

思えばこのころ、とても楽しかった。

日々色んな新たな問題が発生する。

それについて、ではどうしようか、こうしようか、

時に冗談交じりに、

私たち4人のチームは話し続けた。

 

中国人は、話すのが好きだ。

1を聞いても、3ぐらい話そうとしてくれる。

彼らとしても、

私への情報共有を大切に思ってくれていたのだろう。

何か問題が起きると、

すぐにその場で、私へ報告へ来てくれた。

私はその姿勢が本当にありがたかったので、

素直に感謝を伝え、

話を聞き、

そして一緒に考えた。

どうしよう、こうしよう、

こうしたらどうか、

それはいいね!

山のような会話があった。

山のように考えた。

その経験が、貴重だった。

 

いよいよ

プロジェクトは佳境に迫った。

移管の承認取得に成功し、

針・日程がクリアになってから早かった。

ラインはあっけなく移管していった。

 

ラインが移管する前日、

そのラインで働いていたメンバーたちと、

記念写真を撮った。

インは泣いていた。

生産課メンバーと抱擁しあって。

この業務に、本気だったのだ。

それは日々の取り組みの中で明らかに分かっていたことだ。

だがこの涙を見て、

私たちが取り組んできたことは

間違っていなかった。そう確信することができた。

 

1年のトレーニー期間なんてあっという間だ。

帰任の日が来た。

部署のメンバー30名強が、私の送別会に参加してくれた。

中国ではこのような節目を大切にする。

盛大に、にぎやかに、楽しい宴だった。

 

なんか、こういう時のために、

日々がんばっているのだろうな、

そんな風に思えるような楽しい宴だった。

 

宴が終盤に近付いたそのときだった。

送別の言葉として、

インが何かしゃべるのだという。

 

インの顔はこわばっていた。

最初から、目に涙が浮かんでいることがわかった。

 

それからインが一生懸命に話した内容を、

はっきりとすべては覚えていない。

時間が止まったような、不思議な瞬間だった。

 

このようなことを語ったのだとおぼろげに記憶している。

 

『このプロジェクトに全力で取り組んでいて、

色々なことを学んだ。

本当にありがとう。

日本に帰ってからも、

家族の人と仲良く、

健康に気を付けて、

いつまでも頑張ってください。

私たちも、もっと成長して、

中国でがんばります。

 

この1年間は苦しかったけど楽しかった。

この仕事が、好きになった。それがうれしかった。』

 

そういったのだ。

目からまっすぐに涙をながしながら。そう言った。

 

言葉が無かった。

私もこぼれそうな涙をこらえて聞いていた。

こぼれていたかもしれない。

 

『この仕事が、好きになった』

 

それが何より、響いたのだ。

 

その言葉には、偽りがなかったことが証明されていく。

彼女はその後、

その業務への理解を深め、

向上心を持ち続け、

2年後には日本への逆出向を成し遂げた。

逆出向を希望する人は多い。

その競争に勝って、機会を勝ち取ったのだ。

 

中国に戻った今も、

その部署の実務を率いる立場として、

大いに活躍しているそうだ。

風のうわさで聞こえてくるたび、うれしくなる。

 

上司が未熟でもよい、

メンバーの経験が不足していてもよい、

国籍が異なってもよい。

 

考えぬき、

話しぬき、

悩みぬき、

対話を繰り返していくことで、

一人の新人が

『この仕事が好きになる』

過程を共にすることができた。

 

ピュアな中国の新人の心を通じて、

こんな

業務の基礎となるような

本当のコミュニケーションの大切さを

学ぶことが出来たのである。

 

そしても私もまた、

『この仕事がもっと好きになった』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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